馬場(ばんば)の抱地蔵さんのいわれ
明治の初年に、旧物破棄・廃仏棄釈の行われた時代
神戸川北岸の南瀬戸には墓地があった。その墓地には、古くから千体地蔵が安置されておりその中央には、大きさ尺余の座像の地蔵尊が祀られていた。この石仏は、山口正珀氏が奉納したものであった。
明治の初年に、旧物破棄・廃仏棄釈の行われた時代、この千体地蔵も座像の地蔵尊も持ち出され誰かの手によって、神戸川に投げ込まれてしまった。
河水の減った時には、泥土にまみれた姿が隠見する有様であったが、敢てこれを怪しむ者もなかった。
ところが明治三十八・三十九年ごろ、森精右ェ門さんと長谷川関太郎さんの両人が、この川で礫を採っていると、偶然鍬先から仏体が出現したので、これを墓地に安置した。しかし、この仏は苦労されたか頭を失い胴のみの哀れな姿であった。それから数年はそのままの姿であったが、ある日、向山に住んでいた兎屋という人がこれを見て心を打たれ、早速、石屋に頭を作ってもらい継いで一体とした。
一説には、夢のお告げでこの仏体を捜して、常滑の石屋に頭を作ってもらい継いで一体とし祀ったとも言われている。
明治の初年に、旧物破棄・廃仏棄釈の行われた時代
一説には、山口正珀家の6代目左一郎の三男倉之進の妻もよさんが、夢のお告げでこの仏体を捜して、常滑の石屋に頭を作ってもらい継いで一体とし祀ったとも言われている。
それを知った山口倉之進夫婦は、この地蔵尊を引き取ったが、当時、山口家は衰退していたためまづしく、昔、正珀の小作人であった榊原権兵衛の子清太郎さんにあづけ、清太郎さん宅にて祀ってもらうことにした。
こうして祀られてからは、この地蔵尊に願をかける信者が多くなった。そのうち、信者であった杉江ふくさんとおろくばあさんが、お伺いを立てる様になった。